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それでも生きる
Vol.169/2012/02

第5回 「魚島の挑戦 離島と山村と憲法と(中)」 藤井 満


魚島の中心を見下ろす

魚島の中心を見下ろす


 佐伯真登は県庁所在地・松山市の中学に進学したが、父は病に倒れ、中学2年で魚島に戻り、親戚の漁を手伝うことになった。
 戦後直後の47年、魚島村の人口は1,755人を数え、若者で溢れ返っていた。戦後再建された青年団に、中学を卒業して農協に職を得た佐伯も参加した。かつて鯛漁による好景気に沸いた魚島だが、戦後の乱獲で漁場は荒廃し、若者たちが勉強する本を買うカネにも事欠いていた。そこで青年団は、村有林の植林などを請け負って資金を稼ぎ、単行本50冊で53年に図書館を開いた。他の島の青年とともに63年に「愛媛県離島青年協議会」を発足させ、30歳の佐伯が初代会長に就任した。
 活動の中で、佐伯に強く影響を与えたのが、山口県の周防大島出身の民俗学者で、離島振興法成立(53年)に尽力した宮本常一だった。77年5月、「佐伯さんとの約束がありましたので」と、宮本が魚島を訪ねてきた。10年前に「一度ご来島の上、何かとご指導を」と言う佐伯に訪問を約束していたのだ。
 「この自然を生かし、創意・工夫・努力することによって島の生活が豊かになり、前途が開かれる」と宮本は言い、埋もれた資源をどう活かせるのかを説いた。昔話の聞き取り調査では、同じ話を繰り返す老人にやきもきする佐伯を気にもせず、3時間余りも耳を傾けた。「後の者に何かを語り伝えようとする人には、後続の者に寄せる信頼と愛情があり、自分の歩いてきた道に自信がある。その自信の中には、後から来る人のために、必ず役に立つ知識がある。佐伯さん、昔の人の話はよく聞くものですよ」宮本は佐伯を諭した。
 宮本は、貧しくても自立して生きようとする人々を支えようと離島振興法成立に尽力した。だが、膨れ上がった離島予算が補助金行政と政治家の権力基盤となっていることを憂いていた。65年に東京であった離島振興青年推進員全国会議で宮本は開口一番、「現在の離島振興法の補助金を何倍に増やしても島はよくならないと思う」と発言して佐伯の度肝を抜いている。