ドロップアウトの達人 Vol. 60
 

 車を買ったのでドライブしている途中なのだという。「乗っても構わないよ」、と誘われるままに買ったばかりというBMWに乗り込んでみる。メタリックのボディにアイボリー皮の室内、見るからに高そうな車だ。「学生の頃からかな。いつかはBMって決めていたんだが、20年も掛かってしまったよ」。そう語る友人の誇らしげな横顔を眺めているうちに、僕も子供の頃家の近くを走る都電に憧れていたことを思い出した。

「都電?」。「うん、ちょうどこの車みたいにすごく雰囲気があって、乗るのが楽しみでしょうがなかったんだよ」。深く考えずにそうつぶやくと、友人は怪訝な顔をこちらに向けた。「冗談だろ。おまえBMと都電をいっしょにするつもりかよ」。友人は心象を害したようであった。やがて走り去るBMWのテールランプを目で追いながら、僕はまだ都電のことを考えていた。

僕は東京の赤坂に生まれ赤坂で育った。子供の頃の赤坂見附の交差点は、今のような立体交差や、首都高は無かった。代わりに江戸時代からの弁慶橋が残っていて、よく時代劇の撮影をしていた。タクシーは60円で乗り放題、のどかな時代だった。そののどかな大通りの真ん中を悠々と走っていたのが都電だった。

赤いマークの3番線は、小泉八雲ののっぺらぼうで有名な紀伊国坂を上って四谷見附に向かっていたし、黒いマークの10番線は青山通りを登って渋谷に通じていた。当時の都電の停留所は道の真ん中にあり、自分の乗りたい都電に手を上げると止まってくれる仕組みになっていた。小学校の低学年だった自分が手を上げても、黄色い車体に小豆色の線の入った都電は、ちゃんと僕の前に止まってくれた。子供が電車を止めることが出来るというこの感覚は、特別だった。

ドアは、スライド式の手動だった。前から乗る時には運転手が、後ろから乗る時には車掌が幼い自分に手を貸して乗せてくれるのが常だった。僕はあの頃、四谷見附にある塾に通っていた。といっても、勉強などには興味が無く、ただ単に都電に乗りたかっただけだった。都電の床はいつも艶出しが塗られていて、緑色の椅子は冬の寒い夕方には暖房が入っていた。木製の窓枠はニスが塗られて、磨かれて金色に輝く真鍮のアジャスターがついていた。アーチ型の天井には「文明堂のカステラ」「寿ウイスキー」などの広告が、時々パンタグラフの接触の具合でついたり消えたりする車内灯に控えめに照らし出されているといった具合だった。乗っているお客さんはいろいろで、和服を着た女性や大きい氷をしょった行商の人達、それに上智大学の学生などを思い出すことが出来る。僕は都電に乗る時、椅子には座らなかった。座ると居眠りしてしまいそうだったからということもあるが、それよりも立ったまま運転している運転手の隣でその動作を観察したり、前面の大きな窓に現れては消えてゆく景色を眺めることの方が断然面白かったからだ。

都電が警笛を鳴らして進入していくと、目の前の車やオートバイがみるみる道を譲る光景や、四谷の“くいちがい”の土手に沿って枕木の上を普通の鉄道のようにフルスロットルで走る時には、乗っているこちらまで誇らしく思えてしまう程に鉄道としての迫力があった。ある夕方、いつものように運転席の横にへばりついて都電が動き出すのを待っていると、運転手が話しかけてきた。
「いつもそうしているけど、そんなに都電が好きかい?」
「うん、僕も運転手になるのが夢なんだ」と興奮して答えると、年配の運転手は目じりにしわを寄せて人の良さそうな笑顔を浮かべてから、「ごめんな坊や、今月でもう都電はおしまいだよ」とつぶやいた。「おしまい?」。「ああ、みんなバスになるんだそうだ」。

あれから半世紀近い月日が流れた。気が付けばあの時の運転手の年齢、あのグローブのような温かい手をしていた男の年齢に、今自分が差し掛かろうとしている。その日、いつものように赤坂見附で降りた自分に警笛を鳴らして応えてくれたあの運転手、見慣れた3面ガラスの3番線の後姿、もうそのどちらもがこの世にないのだろうと思う。その月の終わりに都電は僕の前から姿を消した。そして2度と大通りの真ん中に戻ってくることは無かった。都電が姿を消したあの頃を境に、東京という街の印象が、何かとても遠いものに、何かとても余所行きのものに変わってしまった気がする。

「GONE WITH TODEN」 都電と共に去りぬ。都電と共に一体何が去ってしまったのか、今夜はじっくりと考えてみたいと思う。

PS:おーい、誰か都電モナカでも送ってくれよ。それと風邪なんかひくんじゃないぞ。

回答ZORRO

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