ドロップアウトの達人 Vol. 52
 

 僕の兄は水源地の川べりに、自分で小屋を建てて住んでいる。もう10年にもなるだろうか。もとは、カナディアンカヌーのインストラクターなのだが、昨今の不景気の影響で乗りに来る人も減り、今の季節は川が凍ることもあって仕事はしていない。今回、話そうとしているのは激貧に耐えるその兄のことではなくて、カヌー小屋から20分ほどの川上に別荘を構える玉川さんという人について。玉川さんはそのあたりでは名の通った会社を経営している50代の社長である。本宅は別荘から車で1時間くらいの町の中にあるのだが、玉川さんは週末になると決まってその川べりの別荘にやってくる。理由は、くるみさんという女性がそこで毎週末、彼を待っているからなのである。
 「くるみは、幸せの薄い女なんだよ。」
 玉川さんが酒に酔うとよく口にする言葉である。2人の出会いは10年近くも前になるらしい。なんでも、くるみさんが玉川さんの友人(カップル)に連れられて、別荘にやって来たのが始まりなのだそうだ。その晩、彼は酒の勢いも手伝って、若い肌に誘われるままに、奔放な一夜を過ごしてしまったのである。2人の関係はそれ以来、ずっと続いている。僕が玉川さんに会ったのは、兄の乗っている軽トラックの調子が悪くて、玉川さんの家のガレージにエンジンオイルをもらいに行った時が最初だった。その時に受けた印象は、暴力団の組長、あるいは松方弘樹に似ているという程度のものだったのだが、彼を知る人の間ではなかなかの好人物で通っているらしい。
 そこでくるみさんなのだが、兄の話によると、ある時、玉川さんがモーターボートでやって来て、これからバーベキューでもやらないかということになり、カヌーをしに来ていた小学生を含む家族連れも一緒に誘われて、玉川さんの別荘に向かったそうなのである。サンサンと降り注ぐ春の日差しの中、別荘の桟橋にもやいをかけて、一同、母屋に続く段々を登り始めていると、やおら、頭の上の方から尋常でない叫び声が聞こえてくるではないか。皆、ギョッとして見上げると、別荘の縁側の開け放たれたガラス戸の向こうに、くるみさんが突っ立ったまま、体を乗り出すようにして登ってくる玉川さんを見据えている。
 「一体、いつまで独りにしておくつもりなの!」
 金切り声とはこういうものを言うに違いないのだが、その時のくるみさんときたら、両の胸も露に、昨晩からの赤い襦袢を腰に引きずったまま、しかも手には包丁を握っていたのだそうである。小学生を含む一同、殴られたように段々を転げ落ちたのは言うまでも無い。
 また、こんな話を聞いたことがある。ある時、玉川さんとくるみさん、それにカヌーをしに来ていた若い連中で、焼肉屋に出かけたことがあったそうだ。総勢15人くらいか。「おう、みんな、心配しないでどんどん食って飲んで、今日は楽しくやろうな」。玉川さんの音頭で始まった焼肉パーティーは、やがて酒に酔ったくるみさんが「一体、いつまでこんなうるさいところにいなきゃいけないのよ」と叫びながら、玉川さんの二の腕に噛み付いたことで、急速に終焉を迎えることになる。衆人の見守る中で、まくり上げた彼の腕の血の滴る、冗談とは思えない歯形を見るにつけ、皆、三々五々家路についてしまったのである。
 「くるみは、かわいそうな過去をしょっているんだよ。」
 なんで別れないんですか?という周りの質問に対する、これが玉川さんの答えである。かといって、玉川さんは奥さんともそれなりにうまくやっているらしい。この間も久しぶりに家にいたら、奥さんが妙に色っぽく見えたので、うしろから抱きついて、そのままやっちゃおうとブラウスの中に手を忍び込ませたそうである。すると、奥さんは「何するのよ。いやらしい!」と振り向きざま、玉川さんにガツンと一発見舞ったのだそうだ。「でね、よーく見て見たらね、娘だったわけね」。ちなみに奥さんと娘さんは、ほとんど同じ背丈(170cmくらい)なのだそうだ。
 「くるみさんがいつも機嫌が悪いのは、結局、奥さんになれない今の状況にイライラしているからなのかな?」。これは僕の素朴な疑問なのだが、兄いわく、どうもそう簡単なことではないらしい。
 「くるみにしたって何も玉川さんの財産が欲しいとか、本妻になりたいとか、そんなんじゃないだろうよ。だって、普段はどこかの税務署で、案外地味に仕事をしてるっていうし。」
  「じゃあ、彼女はいつも何にイライラしているのだろう?」
 ひとりごちていると、おまえも鈍いなあと言いながら、兄が説明を続けるのである。セックスなのだそうである。玉川さんにとってくるみさんは、自分の娘ほどに若い。くるみさんにとっての玉川さんは、手の届かないはずの地元の名士である。10年の歳月をかけて、気が付けば、玉川さん無しでは生きていけない体にされてしまった女の情念が、彼の二の腕に、男根に、睾丸に、容赦の無い歯形を残していく。地位と名声を手に入れた男の方は、若い女の狂気にも似た激しい情念に、いつか噛み切られる日が来るのではないかと恐怖を覚えながらも、それと同時に襲ってくる、えも言われぬ快楽に身を任せる術をすでに会得してしまっているに違いないのである。それで、彼らはお互いを呪いながらも、めくるめく“這うような”週末の沈殿に身を任せてしまうのである。
 これは、そのくるみさんが、最近口にした言葉である。
  「10年もピルを飲み続けているとね、いつか玉川の子供を産んでその赤ん坊を刺し殺すなんていう夢をみるようにもなるのよ。」
  たまに、くるみさんが来ない週末、あの別荘に若い女の生霊が走るという話は、あのあたりでは有名なことなのである。深くて暗い河について、年の瀬の近づいた今、僕が思い浮かべられるのは、このあたりまでである。

回答ZORRO

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